swallowletterの日記

雑多な備忘録

命日

 

今日8月25日は父の命日。

と言っても、本当の父じゃない。ステップファーザーってやつ。

だけど、私にとっては生きてる実父より、このパパの方がパパ。

愛されてたとか当時は思ったことはあんまりなかったけど

いまは大事にされてたなって思う。

生きてる間に全然親孝行できなかったし、最期もたちあえなかった。

 

あの時、夜中に母から連絡がきて、パパが亡くなったって

メールに書いてあって、当時付き合ってた隣で寝てた彼氏を起こしたけど

起きてくれなくて、一人で泣いたような気がする。

いや、泣いてもなかったかも。

泣けなかったのかな、よく覚えてない。

 

まあ、十数年ガンだったし、いつかそういう日が来るのは

わかっていたけど、いざくると、実感ってやっぱりないもんだった。

葬式も出てないし。(前の家族とのかねあいで)

 

いなくなってその不在に、本当に気づかされた。

コンランの家具や、カッシーナのソファー、商売で集めてたアメリカンアンティーク、

着てた服とか。

パパが作ってくれたブイヤベースの味、一緒に入院先で飲んだコーヒー

球場が見える特別室で、こんなところにいたくないって言ってたこと

本当に抜け出してかえってきちゃって、大騒ぎになったり。

 

海外のある空港で、別便っていうか、パパはそのまま海外の家に帰るから

私とママの搭乗ゲートまで送ってくれて、じゃあねって手を振ったら

泣いてたこと。

わたしとママに出会って、初めて家族ができたって言ってたこと。

お金だけはたくさんあって、人望も厚くていつも人がまわりにいたけど

私の知ってるパパは日当たりのいい場所で、寝ながら

志ん生さんの落語を聴いてた。

 

私が形見でもらったのはひとつだけ、もう絶版の本。

 

耳年増になるなよ、ってきつく言われてたこと、今でも守ってる。

パパ、あいたいな、会って、話したいことがたくさん。

もっといろんなところに行きたかったし、もっと一緒に過ごしたかった。

 

いつだって、忘れることはない、側にいてくれるって思ってる

心の中に。

 

なんにもできないままだったけど、これからも一生懸命いきるから

みていてね。

大好き、本当にだいすきだよ。

人づきあいに思うこと

人から相談を受けることが多い。知ってる人も知らない人も。知らない人というのはSNSなんかで会ったことのないひと。だけれども、ダイレクトメール機能というので来る。

 

いつも思うのは、女性たちは結構闘っていて、でもその闘いに疲れても吐き出す場所がないのだな、ということ。これは自分も含めて、なのだけど。頑張ってしまう、それが女性の強さでもあり、そこまで頑張らなくてもなんとかなってしまう(結果論だけど)ということが無意識下でわかっていても、女性は頑張る、特にお母さんたちは。

 

私の周りには母であり、妻であり、女性である人が多い。そういう人たちのはけ口って、本当にないのだなと、いつも感じる。特に年齢を重ねると。

 

それはきっと女性のステージが年齢とともに違ってくるからだろう。

 

結婚しているけど子どもがいない

結婚して子どもがいる

結婚していても家庭や家族がうまく機能してない

結婚していない、彼氏もいない

そもそも結婚や家族に興味がない

 

などなどいろんなパターンに分れる。もちろん男性もそうなのかもしれないが、男性から相談されることはリアルな友だち以外ないので、ここでは省く。

 

まず、私個人の経歴でいうといわゆるバツイチで子なしである。

 

ゆえに、子どもの相談はうまく答えられない、だからといって聞かないわけでも乗らないわけでもない。胸に抱えた苦しみはやっぱり、言うだけでもすっきりしたり、話しながら自分の気持ちが見えたりするものだ。だから、「話を聞いてくれてありがとう」と言われるだけで十分だったかな、と思える。うまく答える必要なんてそもそもなかったのかもとも思う。

 

女友だちのむつかしいところは、自分と同じステージであってもなかなかその胸のうちを吐き出せないことだ。さらにそこに、ステージの違いが重なるとますます話ずらいということになるのである。

 

これは一般的にみてほぼ間違いない気がする。あくまで主観であるけれど。

 

実は私は本来は人づきあいが苦手で、どちらかといえば、うまくない。数多くの友だちを失ってきたし、傷つけ傷つけられてきた。そして傷つけあったこともある。まあこれはみな経験があるのかもしれないが。

 

そういう中で人との距離感の図り方を試行錯誤してきた人生だったともいえる。近づきすぎても不具合だし、遠すぎてもだめで、人によっても違うので、相手をしっかり見つめる、まずこれが本当に大切。そして、自分が無理をして相談に乗るのもだめ。その場しのぎにしかならず、結果、相手を嫌な気持ちにさせることもあるからだ。

 

ではどうするか、やはり、自分がどうしたいのか、その相手にどこまでしたいのか、してあげたいのかだろうと思う。それが「してあげてる」や「してあげたのに」になっては駄目だ。いずれ文句がでるからだ。本当に心からこうしてあげたい、それをする。そして言葉にする、今のところ私はそんな感じでやっている。

 

人生も四十年を過ぎてそれでもまだまだまだ、日々、わからない、できないことだらけで、自分にがっかりすることも多い。

 

だけれども、こんな私でも「聞いてください」と言われたら、少なからず応えていきたいと思っている。それは、わたしに子どもがいないからだ。子どもがいない分の時間を、困っていたり迷っている人に使いたい、そういうことを偽善とも思われるかもしれない、まあ、思われても一向に構わない。だって、全く偽善ではないなんて言えないのだし、そういうことは外側から見てるひとが判断することだからだ。

 

ただ、最低限でいいから、人に対して思いやりを持っていたい。それは小さな、どうでもいいこと、例えば、駅で困っている人に声をかけたり、道を教えたり、なんでもいいから。

 

いい人になりたいのではなくて、いい人でありたいと願うことは悪いことだろうか?そう自問しながら、人づきあいをしている。もっと大きくて、あたたかい人であったらなあ、という自己反省もあるのだと自覚しているし、わがままばっかり言いたいときだってある。

 

いろんな矛盾を抱えての、自分。そしてそういう自分の人づきあい。答えは自分で探していくのだろう、一生をかけて。